足利義昭とお寺・神社

更新日2022.06.22

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戦国大名『足利義昭』(あしかがよしあき)とは

室町幕府 第15代将軍


出典:wikipedia

足利将軍家の家督相続において、当時は無縁の立場でした。

跡目争いを避けるため、幼少期から仏門の道へと入りました。しかし、兄の足利義輝が暗殺されてしまったため、還俗し、第15代将軍に就任します。

勢力を拡大していた織田信長に対立するため、武田信玄や朝倉義景らと呼応して信長包囲網を築き上げます。一時は信長を追いつめましたが、共に包囲網を敷いていた武田信玄の死や、朝倉、浅井らが次々と織田勢に敗れたため、逆に信長に追われる立場になりました。

信長の死後も将軍職にはありましたが、豊臣政権が発足してからは、将軍職を辞し、残りの余生を送ったとされています。

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『足利義昭』の略歴

天文6年
(1537年)
第12代将軍・足利義晴の次男として生まれる
幼名は千歳丸
天文11年
(1542年)
近衛尚通の猶子となり、仏門(興福寺の一乗院門跡)に入室する
法名は覚慶
後に興福寺で権少僧都(僧官の職)にまで栄進する
永禄8年
(1565年)
第13代将軍の兄・義輝と母・慶寿院、弟の周暠が三人衆らにより暗殺される
永禄9年
(1566年)
将軍家を再興するため、還俗し足利義秋と名乗る
従五位下・左馬頭(次期将軍が就く官職)に叙位・任官する
永禄11年
(1568年)
前関白の二条晴良を越前に招き、元服式を行い義昭と改名した
病気を患っていた14代将軍・足利義栄が死去したため、第15代将軍に就任
永禄12年
(1569年)
京都本圀寺に仮御所を置いていた義昭を三好三人衆らが襲撃(本圀寺の変)するが撃退
幕府に代々仕えていた者や旧守護家などが続々と参勤し、室町幕府が完全に再興される
幕府再興の義昭と武力で天下統一を狙う信長との間に溝ができる
元亀元年
(1570年)
信長とともに三好三人衆らを討伐に出るが、巻き返され、和睦の調停役として信長から依頼されることになる
元亀2年
(1571年)
上杉謙信や毛利輝元、本願寺顕如や武田信玄らと信長包囲網を敷く
元亀3年
(1572年)
信長から意見書を突き付けられ、批判されたため織田に対し挙兵する
元亀4年
(1573年)
追い詰められた信長から和睦の申し入れをされるが、これを一蹴する
信長包囲網の中心的存在の武田信玄が病に倒れ、死去する
包囲網が破られ、信長に降伏、京都から追放
天正2年
(1574年)
室町幕府管領、畠山氏の勢力下である紀伊国の興国寺に移る
天正3年
(1575年)
信長包囲網を再度形成するため、武田勝頼、北条氏政、上杉謙信に対して和睦を呼びかける
天正4年
(1576年)
毛利輝元の勢力下である備後国に移る
天正10年
(1582年)
信長が本能寺の変で明智光秀に討たれる
信長の死を好機に、義昭は毛利輝元に上洛の支援を求める
天正11年
(1583年)
毛利輝元・柴田勝家・徳川家康から上洛の支持を取り付ける
天正14年
(1586年)
豊臣秀吉が関白太政大臣となる
「関白秀吉・将軍義昭」という時代が2年間続いた
天正16年
(1588年)
秀吉に従い、将軍職を辞した後に受戒する
慶長2年
(1597年)
大阪で薨去する
法号は霊陽院昌山道休

関連する寺院・神社

興福寺
奈良県奈良市登大路町48番地
☞ 義昭が幼少期に過ごした場所
桑実寺
滋賀県近江八幡市安土町桑実寺675
☞ 父の義晴が仮の幕府を構えた場所。義昭もしばらくここに留まったとされる
本圀寺
京都府京都市山科区御陵大岩6
☞ 義昭が上洛した際に仮居所(六条御所)とし、その後襲撃を受けた場所
興国寺
和歌山県日高郡由良町門前801
☞ 信長包囲網が破られ、義昭が京都追放後に移った場所
田辺寺
広島県福山市津之郷町大字津之郷888
☞ 義昭が毛利輝元の勢力下の鞆に移り、九州平定に向かう秀吉と対面した場所
立政寺
岐阜県岐阜市西荘3丁目7-11
☞ 第15代将軍に就任した年に、信長に迎えられた場所
等持院
京都府京都市北区等持院北町63
☞ 足利氏の菩提寺で、義昭も霊光殿に木像が安置されている
惣堂神社
広島県福山市津之郷町大字津之郷1372
☞ 備後国に移った後、毛利輝元に上洛の支援を求めるまで過ごしたとされる場所
園城寺(三井寺)
滋賀県大津市園城寺町246
☞ 義昭が上洛する際に、信長とともに三井寺光浄院に入ったとされる場所

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