戦国大名『足利義昭』(あしかがよしあき)とは
室町幕府 第15代将軍
出典:wikipedia
足利将軍家の家督相続において、当時は無縁の立場でした。
跡目争いを避けるため、幼少期から仏門の道へと入りました。しかし、兄の足利義輝が暗殺されてしまったため、還俗し、第15代将軍に就任します。
勢力を拡大していた織田信長に対立するため、武田信玄や朝倉義景らと呼応して信長包囲網を築き上げます。一時は信長を追いつめましたが、共に包囲網を敷いていた武田信玄の死や、朝倉、浅井らが次々と織田勢に敗れたため、逆に信長に追われる立場になりました。
信長の死後も将軍職にはありましたが、豊臣政権が発足してからは、将軍職を辞し、残りの余生を送ったとされています。
『足利義昭』の略歴
天文6年 (1537年) |
第12代将軍・足利義晴の次男として生まれる 幼名は千歳丸 |
天文11年 (1542年) |
近衛尚通の猶子となり、仏門(興福寺の一乗院門跡)に入室する 法名は覚慶 後に興福寺で権少僧都(僧官の職)にまで栄進する |
永禄8年 (1565年) |
第13代将軍の兄・義輝と母・慶寿院、弟の周暠が三人衆らにより暗殺される |
永禄9年 (1566年) |
将軍家を再興するため、還俗し足利義秋と名乗る 従五位下・左馬頭(次期将軍が就く官職)に叙位・任官する |
永禄11年 (1568年) |
前関白の二条晴良を越前に招き、元服式を行い義昭と改名した 病気を患っていた14代将軍・足利義栄が死去したため、第15代将軍に就任 |
永禄12年 (1569年) |
京都本圀寺に仮御所を置いていた義昭を三好三人衆らが襲撃(本圀寺の変)するが撃退 幕府に代々仕えていた者や旧守護家などが続々と参勤し、室町幕府が完全に再興される 幕府再興の義昭と武力で天下統一を狙う信長との間に溝ができる |
元亀元年 (1570年) |
信長とともに三好三人衆らを討伐に出るが、巻き返され、和睦の調停役として信長から依頼されることになる |
元亀2年 (1571年) |
上杉謙信や毛利輝元、本願寺顕如や武田信玄らと信長包囲網を敷く |
元亀3年 (1572年) |
信長から意見書を突き付けられ、批判されたため織田に対し挙兵する |
元亀4年 (1573年) |
追い詰められた信長から和睦の申し入れをされるが、これを一蹴する 信長包囲網の中心的存在の武田信玄が病に倒れ、死去する 包囲網が破られ、信長に降伏、京都から追放 |
天正2年 (1574年) |
室町幕府管領、畠山氏の勢力下である紀伊国の興国寺に移る |
天正3年 (1575年) |
信長包囲網を再度形成するため、武田勝頼、北条氏政、上杉謙信に対して和睦を呼びかける |
天正4年 (1576年) |
毛利輝元の勢力下である備後国に移る |
天正10年 (1582年) |
信長が本能寺の変で明智光秀に討たれる 信長の死を好機に、義昭は毛利輝元に上洛の支援を求める |
天正11年 (1583年) |
毛利輝元・柴田勝家・徳川家康から上洛の支持を取り付ける |
天正14年 (1586年) |
豊臣秀吉が関白太政大臣となる 「関白秀吉・将軍義昭」という時代が2年間続いた |
天正16年 (1588年) |
秀吉に従い、将軍職を辞した後に受戒する |
慶長2年 (1597年) |
大阪で薨去する 法号は霊陽院昌山道休 |