武将・戦国大名『北条氏康』(ほうじょううじやす)とは
戦国時代の武将・戦国大名で数々の戦を経験し領土を拡大した人物
出典:wikipedia
後北条氏第3代目当主の北条氏康は、第2代当主・北条氏綱の嫡男として生まれました。
氏康が生まれる以前の北条氏は、備中伊勢氏の庶流の家柄であり、後の本拠地ともなる相模国とは縁もゆかりもなかったと伝えられております(諸説あり)。
氏康の父氏綱は、その父早雲庵宗瑞が相模国へ侵攻した際に得た小田原城を本拠地として地盤を固めていきましたが、伊勢氏の名はよそ者というイメージが強かったため、伊勢氏から北条氏に改称したと言います。
氏康は27歳という若さで家督を継ぎ、今川・武田との甲駿相三国同盟を結び関東最大勢力にまで拡大していきました。
元亀2年(1571年)病没、享年57才でした。
『北条氏康』の略歴
永正12年 (1515年) |
北条氏綱の嫡男として生まれる。母は養珠院、幼名は伊豆千代丸。 |
大永4年頃 (1524年) |
父・氏綱が北条氏を名乗るようになる。 |
享禄2年 (1529年) |
氏康15歳の頃に元服。 |
享禄3年 (1530年) |
小沢原の戦いで上杉朝興と戦い初陣を勝利で飾る。 |
天文4年 (1535年) |
甲斐山中合戦に参戦。北条氏が留守の相模に侵攻する気配があったため北条軍は撤兵する。 従兄弟にあたる今川氏親の娘を正妻に迎える。 |
天文6年 (1537年) |
河越城攻略などに出陣して戦功を重ねていく。 嫡男の西堂丸(北条氏親)が誕生。 同盟国の今川氏が対立していた武田氏と婚姻同盟を結んだことで今川との同盟を破棄し、駿河に侵攻。 |
天文7年 (1538年) |
第一次国府台の戦いで敵の総大将・小弓公方の足利義明を討ち取り勝利。 |
天文10年 (1541年) |
父氏綱が死去。家督を継いで第3代当主となる。 |
天文11年 (1542年) |
領内の検地を行い課税基準の見直しを実施。 |
天文13年 (1544年) |
武田晴信(後の信玄)と和睦。 |
天文14年 (1545年) |
駿河の今川義元からの和睦を断り第2次河東一乱が勃発。領内での挙兵もあり危機的状況に追い込まれた氏康は、東駿河の河東地域を義元に割譲することで和睦する。 |
天文15年 (1546年) |
領内での挙兵が大きくなり圧倒的劣勢に追い込まれるものの、北条氏側が勝利し、関東における抗争の主導権を確保する。 |
天文17年 (1548年) |
領内で挙兵していたものたちを次々と離反させて北条氏の傘下に置くことに成功。 |
天文19年 (1550年) |
上杉憲政の居城平井城を攻め、翌年に落とすことに成功。 |
天文22年 (1553年) |
内房正木氏が北条の傘下とする。 |
天文23年 (1554年) |
古河城へ侵攻。関東諸侯との敵対状況は続くも徐々に平定していく。 今川氏の重臣・太原雪斎の仲介により娘を今川義元の嫡男・今川氏真に嫁がせる。これにより甲相駿三国同盟が成され、関東での戦いに専念することになる。 |
弘治元年 (1555年) |
内房沿岸における里見軍の拠点の1つであった金谷城を攻略する。 |
永禄2年 (1559年) |
次男で長嫡子の氏政に家督を譲り隠居するが、政治・軍事の実権を掌握していたとされる。 |
永禄3年 (1560年) |
桶狭間の戦いにおいて今川義元が織田信長に討たれたため、今川氏の勢力が衰退する。 上杉謙信が関東へ侵攻し小田原城の戦いが始まり、幾度となく攻められる。 |
永禄9年 (1566年) |
朝廷から相模守への任官を受ける。。 |
永禄11年 (1568年) |
三国同盟を破棄し武田信玄が駿河侵攻。追い詰められた今川氏真を支援をしたため、甲相同盟が破綻する。 |
永禄12年 (1569年) |
武田軍が武蔵国に侵攻。小田原城での籠城戦を徹底し防衛。 |
元亀元年 (1570年) |
中風とみられる病となる。 |
元亀2年 (1571年) |
小田原城にで病没。享年57。 |